世に出さないというのも可哀相なお話で
某同人誌のようなものに寄稿する予定であった、のであるがそれが流れてしまったがゆえに、このまま眠らせておくのにはせっかく紡ぎだした文字たちが可哀相であるという趣旨のもとこちらに載せておくことにした。
自分の文章力がどうのこうの、これを世に出さずしては勿体無いなどという傲慢な気持ちでこの記事を書いているわけでは無いということはぜひともご了承願いたいところである。
つまり、わたしはわたしの文章でわたしを救いたかったのだ。思うに、表現とは自己のためにある。
以下本文である。
ショート ショート ショート
授業開始五分前。パタン、と小さな音を立てて栞はたった今読み終わった本を閉じる。そして、まわりをぐるりと見回す。
――ああ、きょうもなにもかわってはいないのだわ。
絶望とすこしの安心感を得て、机に突っ伏した。
栞にとって、自分は世界であり、世界は自分であった。どこかの偉いひとが言うには、主体(個人)は、「他者」や同胞との同一化を通じて、自らを存在すると認識している。
――人は人無しでは生きられないのね。
目を閉じながら考えていた。もちろん顔は伏したままである。
栞は、思う。感じる。考える。しかしそこで止まってしまう。それらを誰かに伝えようだとか、わかってもらおうだとか、はじめから思ってもいないようにさえ見える。
――人から価値判断を下されるのは怖いもの。怖いけれど、誰かがいなければ私はどこに立っていればいいのか全くわからないのだわ。だから、そう。こうしてひたすら待っているだけ。
実態の無い待ち人は未だ来ない。栞のアタマはふるふると震えだす。
――誰か私に名前をつけて。名前をつけられると、その枠から出られなくなりそうで恐ろしかったけれど、今は一刻も早く名前をつけてほしい。さもなければ私は、ただ甘えているだけの、人間。実体の無い待ち人は未だ来ない。栞のアタマはふるふると震えだす。
「栞! 宿題、写させてよう。今度アイス奢るからさっ!」
突如頭上から降ってきた音に、寝たふりを決め込むか、一瞬の逡巡ののち小さく、うん、と呟いて、栞はゆっくりと顔を上げた。
――甘いものは好きではないのだけれど、ね。
(完)
参考文献
ルイ・アルチュセール/フェルナンダ・ナバロ(1993)
『不確定な唯物論のために―哲学とマルクス主義についての対話』
山崎カヲル訳,大村書店.
以上であった。ショートショートと呼ぶには短すぎるために、何せ800字程度しかない文章とも呼べない文章であったがために、ショートショートショート、という題をつけた。栞はわたしであった。かつてのわたしであった。いや、いまもわたしは栞の枠から飛び出すことができていないのかもしれない。
文章を書く、ということは自分にとって研究の専門領域であるがしかし、肝心の私自身がそれを感覚で行っていたことに危機感を覚えたがゆえの今回の試みであった。自分自身の根本的な課題が見出せたことには意義があったといえよう。
灯台もと暗し、とはこのことではなかったか。
さて、こうなる予定であったのだよ、という記事の全貌を最後に載せて〆とする。なお、レイアウトが一部崩れている旨御了承願いたい…(なぜなのか本人もわかっていない)