「ハンナアーレント」を観る
昨年岩波ホールで上映されていた作品。観に行きたかったのだけれどタイミングが悪く叶わず、ようやく観ることができた。
以下、内容の紹介は避け、学部時代の講義内容なんかも思い出しつつ交えつつ、自分のための備忘録としたい。
- 映画としての魅力
『イェルサレムのアイヒマン』発表の背景とその論争の経緯がコンパクトにまとめられている。描こうと思えばもっと描けただろう、くらいの多少の物足りなさは感じるものの、それも込みで「アーレント」についての作品であるといえるのではないか。この「もやっと」感がむしろ心地よい。
- 「凡庸なる悪」
現代社会においても、凶悪犯罪が起こると、人々はその犯人の育った環境であったり嗜好であったり、なにかそのひとが持つ「特別なもの」を見つけようしがちである。それは誰でもその犯人と自分は違うと思いたいから。しかし「凡庸なる悪」は誰でも持っている。思考を放棄して―人間たることを放棄して―結果ユダヤ人虐殺の一翼を担ったアイヒマン。彼の為した悪は人間の根源的悪などとは比較できない悪なのであった。彼の言動はもちろんのこと、彼を裁く法律も無いとなったときアーレントの目にうつった悪は、ただ、平凡なものであったのだ。
- 人間たること
全体主義は、人間という概念を内側から壊した。人をモノのように扱ったという側面がひとつ。皆が思考を放棄し、右へ倣えとばかりにわかりやすい象徴へと傾いたという側面がひとつである。アーレントは、考えることに何よりも重きを置いた。自分自身との静かな対話を通した思考、他人とのかかわり(action)による思考。思考することは人間であることなのだ。
この点において言えば、アーレントの記事を「批判」した人々のなかにも人間たることを放棄した者がいただろう。
「過ちを正せと皆言うけれど、何が過ちかは言えないのよ。」
私自身この台詞を言いたくなることが、ままある。よく言葉にしてくれたものだ。
- 愛について
「ユダヤ人を愛したことはない。ひとを愛するのよ」
素敵な愛が描かれる中でとくに心打たれた台詞。仲間は大切。自分の国を思う気持ちもあったっていい。ひとがいなければ国も成り立たない。けれど、それ以前に、自分の目の前の人と対話することこそが重要なのだ。
少し冷めていたアーレント熱、再燃の予感。
昔の講義ノートを引っ張り出して勉強しなおそう。読んでいない本も読もう。日々思考しよう。わたしも人間であるために。